
現代の日本は、総大学時代に突入しているようです。少子化がさらに加速しており、一人の子供にかけられる学費も昔に比べて伸びていることを反映しています。
大学の定員に対する受験者数の割合も減り、大学に合格すること自体はさほど難しいこととは言えなくなっています。そんな中、大学側も生き残りをかけ、様々な試みに取り組んでいます。
しかし、その一方で、大学入試制度の多様化や、予備校・塾などによる大学受験対策、高校の進学指導体制が確立されつつあることなどにより、本来あるべき大学と高校の学習内容に大きな歪みが生じているとも言われます。
私たちは、大学における教育の内容について、あらためて考え直すべき時期にきているともいえます。
人間は哺乳類、いや全動物の中でも一番知能が高く、高度な学習能力を備えていると言われています。それは、地球上の他生物と違って、学習をしなければ社会に適応して生きていくことができないからです。
しかし、特に高校、大学では、本来あるべき学習の場としての側面よりも、社会に役立つ人間として教育される場としてのカラーが強くなってきています。ここに、本来は義務教育でない高校、大学での学習が、半ば義務教育化、つまり上から与えられる知識を身につけるという教育の場になってしまっている弊害の原因になっているともいえます。
ここに日本の大学生を対象に行った、学習の意識に対する興味深いアンケートの結果があります。「大学に進学した目的は?」という問いに対して、ずば抜けて多かった回答が「みんなが行くから」というものだったという結果です。
本来の大学に求められるべき「学び」と「研究」の意思が欠落していることを示す、大変残念なアンケート結果であり、日本の大学環境が崩壊する危機と言えるでしょう。
現在の大学が積極的に取り組むべきは、自発的に行動できる人材を育てること。そして日本人が苦手とする「対話」を授業に取り入れるべきだと、私は思います。
日本社会においては、他人を「批判する」ということは、常によくないことだとされています。これが自発的に意見を述べるという土壌を形成しにくい原因なのですが、同時に克服するべき問題でもあるでしょう。学習における批判は、駄々をこねたり、相手の存在を否定するような悪口とは全く別のものです。逆に、学会のような場では批判というのはむしろ歓迎されること、一方的な側面からしか物事を語り合わないのは既に学問の場ではないということを自ら認める行為なのです。
グローバル化する世界の中で日本人も対等に活躍してゆくには「ディベート」は必要不可欠なスキルです。日本の学生も、自由にディベートを行えるような環境が与えられれば、積極的に討論することができるはずです。
学習において大切なのは、正しい結論を出すことよりも、遠慮することなく意見を言い合い、間違った意見でも、それがなぜ間違っているのかを討論するという「学習の過程」にあるといえます。これが本来の「学び」でもあるのです。
人間はこの世に生を受けた時点で、それぞれ異なった人生をスタートしています。異なる経験を積み、異なる学習をして、他者と異なる自己を形成していくのです。自分という存在は今までも、そしてこれからも、二つと存在することは決してありません。大学での「学び」により、自分にはどんなことが出来るか、自分は何をやるべきなのか、そして自分はどう生きていくか、といった考えを固めていくこと、その過程こそが重要なのです。
大学という場所は、社会のために役に立つ人を製造する場所ではありません。人材育成のために作られたものでもありません。学生ひとりひとりが「学ぶ」ということの意味をしっかりと考え、自分自身を成長させるための場としての大学を意識することがとても重要です。
大学での学びを生かすことで自分がいかに生きていくかを考えれば、大学を卒業してから自分探しの旅をしているような行為がいかにおかしいかを認識できることでしょう。